有松絞りとは

東海道53次の浮世絵にもでてくる有松絞りの、400年以上前に始まった誕生の歴史と、長い年月を経て育まれた製品の技法と特徴を、リラックスした角度から眺めてみました。

有松絞りの歴史

有松絞りの技法と特徴

有松の始まりは約410年前

小学校の歴史で習った「関ヶ原の戦い」は、ちょうど「1600年」と憶えやすい年号でしたが、その8年後の1608年に、尾張藩が東海道沿いに新しい集落を作るために開かれたのが、有松の始まりといわれています。
東海道の鳴海宿の南に位置する有松は、人家が少ないため治安が悪く、街道を旅する人たちの警護の役割もあって武芸に覚えのある住民も多かったそうです。

宿場町としては厳しい環境

愛知県名古屋市の南部に位置する有松は、稲作には適していない丘陵地帯であったことや、となりの鳴海宿が近かったために、間の宿場として栄えるのは簡単ではありませんでした。

有松絞りの始まりは手ぬぐいから、技法は豊後から

その当時に始まった名古屋城の築城には、各地から多くの職人が集まりましたが、九州から来ていた人々が着ていた絞り染めの衣装を参考にして作った、「絞り染めの手ぬぐい」をみやげとして売ったのが、有松絞りの始まりと言われています。その人の名前は竹田庄九朗といいます。
 
また、名古屋城の築城から40年以上も過ぎた1655年に、豊後(現在の大分県)から移り住んだ三浦玄忠という人の妻が伝えた豊後絞りの技法が、有松絞りを大きく進歩させることになります。その技法は三浦絞りと呼ばれ、現代でも有松絞りの代表的な技法のひとつとなっています。

有松絞り 浮世絵

有松の繁栄期

商品力を上げて売上も伸ばした有松絞りは、周辺地域の鳴海などでも生産される状況になったため、尾張藩に対して、有松以外での絞り染め生産の禁止を訴えた結果、尾張藩は有松絞りの保護のために、有松だけに営業独占権を与えました。現在も残る有松の豪壮な町並みの一部からは、その歴史を物語る遺産的な一面を垣間見ることができます。

有松の衰退期

幕末まで続いた有松絞りの独占権も、時代の変化と共に開放され、明治以降は、有松近郊だけでなく全国各地で生産されるようになったことや、東海道が交通手段の中心から外れていったことで、有松絞りは衰退期を迎えることになります。

復活、再生を繰り返した有松絞り

かつての独占権などの行政上の特権が失われたときに、そのまま衰退していくかと思われた有松絞りですが、新たな技法の開発と特許権の取得によって見事に蘇り、明治の中頃には全盛期を迎えます。
 
そして第二次大戦中には戦時統制のために一時、衰退したものの、終戦と共に統制が解除されたことで、再び生産量は増加していきました。

有松の町並

社会環境や、世界情勢の変化と有松絞り

1970年台に入ると、日本人がそれまで普段着としていた着物文化そのものが縮小傾向に入ったことや、高度成長で高騰した人件費の影響で低価格の海外製品との競争が始まった結果、有松だけでなく業界全体でも着物の生産量は減少しました。

現在の有松絞り

有松絞り製品の生産高は1990年代以降、従業員数は1980年代半ば以降から減少しており、伝統的工芸品産地の全国平均値を下回っていますが、その一方で、年産額は全国平均値を大きく上回るという、全国的にも非常に稀有な現象を起こしています。
それは、有松絞りが400年という長い歴史の中で、時代に応じて変わり続けながら今でも、高い付加価値を持つ商品であることをわかりやすく表現しているデータの一つとなっています。
 
総絞りの振袖姿で登場した、卓球の福原愛さんの結婚会見は、有松絞りの魅力の一面でもある華やかなイメージを、日本中の人に披露した貴重な機会になりました。
名古屋市の川村たかし市長(2018年4月時点)が、地元行事で会見の時や、各種イベントへの参加の際には、ネクタイ、ワイシャツをはじめ、夏にはポロシャツまでも、有松絞りデザインの姿で登場する姿は、名古屋地区のテレビニュースでは見慣れた光景となっています。
 
長い歴史の中で何度も復活し、生まれ変わってきた有松絞りは、着物を愛する人々の心を、これまでと同じようにときめかせてくれながら、これからもまた新たな歴史が作られていくことを期待させてくれる、魅力的な工芸品です。

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